「生きている」のではなく、「生かされている」
ひと足先に帰った友人を見送ったあと、わたしはいつもどおり竹富島へ。
いつ戻ってきても変わらない風景と穏やかな時間が流れていて、自分のことを娘のように可愛がってくれる人たちがいて。いつしか、ここも東京と同じくらい大切な場所のひとつに。
ただ、なぜこんなに小さな島に惹かれ続けているのか、その理由が自分であまりピンときていなかったところがずっとあって。
でも今回、ようやくその理由がいくつか見えてきた気がする。そのうちの一つが、ここに来ることでわたしたちは「生きている」のではなく、「生かされている」ことを思い出せるから。
(その夢や目標の大小に関係なく)わたしたちは何かを成し遂げたときについ、「自分の力」でやり切ったものだと考えてしまうもの。けれど本当は、どれだけ小さなことであったとしても、ここまでたどり着くには目には見えないたくさんの人たちの力が積み重なっているもの。
けれどよく考えてみると、たった一人でやりきったことなんて、じつはほとんどなくって。
自分の知らないところで動いてくれた人たち、目には見えない存在や力たち。それらに気がつき、想いを馳せることで、自然と感謝の気持ちが芽生えてくる。
すると、感謝とともに「この恩を返していきたい、巡らせていきたい」というピュアな気持ちがわいてくる。
わたしがこの島に来ることになったのもきっと、自分自身だけでは把握しきれないほどの導きがあったはず。だからこそ、この場所へ導いてくださったすべてに対して「ありがとう」の気持ちでつい胸が熱くなるし、たくさんの心の豊かさを巡らせていきたい。
つい私たちは、多くのものを欲しがろうとしてしまうもの。
けれど、「どれだけ相手からもらえるか」という気持ちを「どれだけ相手にプレゼントできるか」にちょっと方向転換してみる。
すると、目に映る景色がちょっと違って見えてくるはず。
だって、既にわたしたちにはすべてが与えられているのだから。
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